ACTIVITIES活動報告

北方領土訪問を振り返って

今朝のTBSやフジで、今回の北方領土の件に関して私のコメントが放送されます

私の祖父は戦前、南樺太の敷香町に赴任していました。終戦後、シベリア抑留され、引揚げ受入れの舞鶴港(京都府)へ帰還したのは、戦後10年余りも経った1956年のことです。

祖父が見ていた風景に近い場所を自分の目で見てみたいという思いも、今回の訪問団に参加した理由です。


丸山氏の発言のあった夜は、公式日程終了後、さっさと部屋に戻り就寝しました。
公式日程終了後の夜の過ごし方は人それぞれで、65人が一堂に会していたようなことはありません。

また、私が部屋に戻って朝まで寝ており、今回の発言があった現場にいなかったのは、全団員(報道関係者、政府同行者も含みます)周知の事実です。

私はこのように現場にいなかったので、丁寧に取材をお断りしていましたが、国会議員として説明責任を求められ初めてテレビ取材に応じました。


今回の丸山氏の発言や行動の詳細が真実であれば許しがたいことであります。

私自身、丸山氏の発言の詳細を後日、報道で聞いて衝撃を覚え心を痛めましたが、私以上に元島民の皆さまはもっと心を痛めたと思われます。

丸山氏の戦争発言についての是非以上に私が思うのは、その晩までに元島民の皆さまから、想像を絶する当時の色々なお話を聞いていた中での発言ということです。


ある方曰く、「終戦後の10月にソ連兵が国後島に侵入してきた。限られた船で島を脱出する際に、ある夫婦は、自分たちの息子娘を先に船に乗せた。その後、ようやく夫婦も船に乗って北海道にたどり着いたが、そこで待っているはずの子どもたちがいなかった。聞くと、子どもたちの乗った船は途中、ソ連軍に砲撃されて海に沈んだと。それを信じられない夫婦は何年も子どもたちのことを探し回った。」

ある方曰く、「脱出の船の中で自分の子どもが亡くなり、その遺体を海に投げ捨てざるを得なかった(船内で自分たちで作ったルール。遺体を船内に放置し続けることはできなかったため)。その時の気持ちを想像するだけで涙が出そうになります。」「乳飲み子をおんぶして脱出船に乗った夫人は、自分の背中で乳飲み子が息を引き取ったのをわかっていたが、
死んだと(周囲に)わかると海に放り出さざるを得ないから、背中の乳飲み子が死んだとわかっていながらも、生きているふりを装った。」

ある方は、「風呂敷一枚で嵐の夜(悪天候の海であれば、まさか出航しないだろうと思われているため。あえて嵐の夜を選ぶ。)にソ連兵の目をかいくぐり、風呂敷一つで島を脱出した。
途中船のエンジンが壊れて漂流。運良く網走にたどり着いたが、生きた心地がしなかったという。その後、羅臼町で開墾の許可が降りたが、風呂敷一つで脱出してきたので、手で開墾し、草の家で三世帯で当分の間暮らした。」

今、改めて文字にするだけで辛く悲しい気持ちになります。とはいえ、丸山氏の問題発言や行動の現場にいなかったので、言葉を選びながらの発言に終始致しました。青山のコメントがどのように編集されるかはわからないです。そのため、視聴者の皆さまの中には誤解される方がおられるかもしれませんが、まぁこれも天命だろうと思っております。
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